こんにちは。SNFです。
年末にとある本屋さんで見つけた「所有とは何か ヒト・社会・資本主義の根源」という本を、年末年始の隙間時間で読みました。

隙間時間というのは、年末年始は割と時間があるかな〜と思っていたら、体調を崩したり、ちゃんとした大人らしく親戚付き合いに励んでいたりで、意外と時間がなかったため、その合間の時間で読んだという意味になります。
まあ親戚付き合いと言っても、自分で納得してその時間を使う方が、総合的に自分の人生全体にとって良いと考えて、時間の使い方を決めていますので、よく言う「親戚付き合いが煩わしくてねぇ」的な感想を僕は持っていませんが、人生積み重ねていくと、色々とやることが増えていくんだなぁとしみじみと感じています。

さて、この本は、僕たち現代人がそこはかとなく持っている所有権というものに対して、さまざまな国の現代または、歴史上の事例を踏まえて考察しているもので、内容自体は面白いものでしたが、今日僕が取り上げたいのは、「制度」についてです。
この本の全体的な書評は、以下のNote記事がよくまとまっていますので、興味がある方はお読みになると良いと思います。

https://note.com/shunpei444/n/n0fa8cfb3740b

ちなみに、本全体を読むのはけっこう覚悟がいるかもしれません。というのも、おそらくこの本は学者の方が、その分野の学生とかに向けて書いているものでして、言葉遣いやコンテキストに、門外漢の人に対する配慮をあまり感じないためです。
(もちろん、だから面白くない、とは言っていませんよ)

では本題に入ります。
「制度」について取り上げると書きましたが、本書の中には、タンザニアの経済がケーススタディとして出てきます。
タンザニア経済は、大きく分けて次の2つのタイプの商いを営む主体から成り立っています。

  • インフォーマル経済:法令等による公式の取り決めの適用を受けない(ことをそのリスクも踏まえて選んでいる)人々が動かす経済
  • フォーマル経済:法令等に則って営まれる商売の総称*

*フォーマル経済という言葉は本書内で明確に出てきませんが、インフォーマル経済と対比される言葉として使います。

このうち、インフォーマル経済圏では、マリ・カウリ取引と呼ばれるいわば口頭での信用取引が、商慣行として執り行われています。
この取引では、まず特定の財、たとえば車の持ち主(以後、所有者)が、その財を使って商売をしたい人(以後、商売人)に、財を貸し出します。
その商売から生まれた利得のうちの一部を、所有者がもらうという約束のもと、商売人は財を使って商売を行い、さらに一定の期間が経過すると、所有者は商売人にその財を譲渡します。(よって、譲渡しても経済合理的になる程度に、マージンを乗せて、商売人は所有者に利得の一部を渡します)

マリ・カウリ取引のような慣行について日本人である僕が聞くと、商売人による財の持ち逃げリスクや、財の譲渡という約束が履行されないリスクをはじめとする様々な観点から、そんなものが成り立つのかと驚きを覚えます。しかし、この取引は、いわゆる卵を1つのカゴに盛りたくない所有者と、小さい元本で商売を始めたい商売人とで経済合理性という観点で利害が一致しており、さらに法的契約に則らないためコストが低く、この商慣行は、日本の経済学者に知られる程度には広く行われています。

さて、僕たちが暮らす日本でも、このような商慣行がそのまま行われている、ということはないにせよ、類似の現象、すなわち、皆が守るべきと当然に思われているような義務を、合法的に回避することで、成果を上げている集団が存在すると思います。

身近な例を挙げると、次のようなものです。

  • ①創業したての役員と熱狂的な社員しかいない会社
  • ②家族経営の店舗

①については、創業期の美談(?)のような話として、「当時(役員だった私)は毎日16時間、週7で働いてた」というような話を聞くことは珍しくありません。このケースは、被雇用者ではなく取締役であれば、労働時間的制約がないことを踏まえていて、労働時間を8時間程度に収めるべき、という義務を回避しています。

また、②については、家族経営のお店であるがゆえに、ただで働いてくれるスタッフがいるのと同然というようなお店は、世の中にたくさん存在します。こちらのケースでは、単にPL的な意味でのコストが小さいだけでなく、雇用者の法定福利費や税金支払い等を適切に実施するための労務管理コストも発生しません。

制度に則って、きちんと事を構えるためのコストは、一般論としてスケールが大きいほどに対応が有利になる性質がありますから、その中で競争しようとすると大企業に有利です。このような制度がどんどん「きちんとする」方向に整っていけば、小規模の集団には、制度の適用範囲外になるような方法を利用して成果を上げることに対するインセンティブが生じます。(なぜなら、きちんとするためのコストが高すぎて、大きい集団に対して勝負にならないから。)

物事をきちんとしようという主張は、少なくとも局所最適的な観点からは明らかに正しいので、そのような取り組みをなかなか止めることはできず、今後も「きちんとする」方向に世の中は進んでいくと思います。

こういった意味で、僕たちの住む日本でも、制度による権利の保護が進めば進むほど、その制度の中でうまくやる大きい集団と、その制度に囚われなくて良い方法を合法的に探して、その外側でうまくやる集団に、より極端に分かれていくのではないか、と思わされました。