高校卒業時だったか、大学に入ったばかりの頃に聞いた言葉で「これからは理系も文系も関係ない。理系・文系という分け方自体が時代遅れだ」というような言葉が、今でも印象に残っています。

誰がどういった文脈で言った言葉なのか、すっかり忘れてしまったのですが、学校の先生的な人が、卒業か入学か何かの節目の挨拶で発言した内容だったような気がします。私は、その言葉を聞いて、「なんだかどこかの偉い人が言いそうな底が浅い発言だなー」というような印象を持ったことを覚えています。大変ひねくれていますね。

さて、理系と文系の境界、違いというテーマについて、最近思うところがあったので、文章として考えをまとめます。

極めて優秀な文系出身の友人

便宜的に友人と書きましたが、私は最近、公私様々な場面で、いわゆる文系(=経済学や文学、法学などの学問)のバックグラウンドを持つ方で、極めて優秀な方と接する機会があります。

ちなみに余談ですが、私は人のことを「優秀」と形容するのは好きではありませんし、自分自身が優秀と言われるのも実はあまり好きではありません。人に対して優秀という言葉を使う時には、その人が置かれている環境において、その人が期待される成果を出す上で、その人が持つ何らかの能力がマッチしていて、高い水準にあることを指すと思います。

しかし、人間が期待される成果というのは、時代や場所によって大きく異なります。たとえば、現代の高度に情報化された社会において多くの人に必要とされる能力と、2万年前の狩猟採集時代に必要とされる能力、そしてこれから2千年後に必要とされる能力は全く異なるはずです。また、たとえ同じ時代でも、日本のような成熟した社会で生き抜くために求められる能力と、より成長過程の若い社会で求められる能力は大きく異なります。

一方で、優秀という言葉を人に対して使うとき、その人が求められている成果を出せているのが、まるでその人自身に固有の能力のみに起因していて、その人物自体の性質として成果を出すことができる能力を備え持っているかのように聞こえます。私が優秀、という言葉に違和感を覚えるのは、時代や環境によって異なるはずの求められる能力について、まるで特定の人物固有の絶対的性質として、「優秀」と言っているように聞こえるからです。

実際にはこの言葉を使っている全ての人が、そんなふうに考えてこの言葉を使っているということは別になく、その発言者が主観的に考える、必ずしも明確に言語化はされていない優秀さの定義にそって、優秀と発言しているに過ぎないとは思うのですが、それが言葉遣いに現れていないことがなんとなく気になるということです。

さて、余談が長くなりましたが、私が上で述べたような文系のバックグラウンドを持ち、極めて優秀である人、という言葉の中で、優秀である人というのは、たとえば次のような性質を持っている人のことを指しています。

  • 自身および他者の役割についてメタ認知していて、その役割に沿って行動できる。必要に応じて役割を超える動きもできるが、その行動が他者の役割に侵食していることに自覚的で、その役割を本来持つべき他者に対して適切な配慮をしたうえで越境的役割を果たすことができる
  • 基本的な推論能力や言語化能力が高く、新しい仕事の方法やこれまで経験してこなかった仕事に早く適応できる
  • 精神的タフさを持っており、多少のトラブルや想定外の事態が起きても、冷静に対処できる
  • 他者の感情的側面を理解しながら行動し、かつ必要な場面ではそういった側面を配慮し過ぎず、目的としている事柄を達成するためにはときに冷酷に見られるような判断を勇気を持って下し、行動に移すことができる

彼らと話していて感じるのは、文系的バックグランドを持っている人たちが、何らかの考え方を示した人の人名、つまりその考えを発出したのが誰であるかということを非常に重視しているということです。

私自身は、理系的バックグラウンドを持っています。自分自身は、考えを示した人の人名よりも、その内容の確からしさに関心がありますし、私がこれまで付き合ったことのある極めて知的水準が高いと一般的に言われるであろう理系的バックグラウンドを持つ人々も、人名に対する関心が文系的バックグラウンドを持つ人々よりも低いように思っています。

人名に対する関心の高低を感じるというのは、たとえばなんらかの書籍を読んだときに、その著者の名前をどれぐらい覚えているか、その著者が誰であるか、というのをどれぐらい意識しているか、というようなことについて、私はあまり人名に関心を示さない場面において、上で述べたような文系的バックグラウンドを持つ極めて優秀な友人は、強く関心を示しているときがあるということです。

私は、その書籍の内容が、論理的に矛盾していないか、あるいはその書籍の内容の反例となるような事柄が世の中に存在しないか、ということに関心を持っている一方で、文系的バックグラウンドを持つ友人は、その書籍を誰が書いたか、ということへの関心をより強く持っていると感じる場面があります。

この違いがどこから生じるのか、ということが不思議で考えを巡らせていました。

理系と文系の境界

ここで冒頭の話に戻り、理系的学問と文系的学問の違いとはそもそも何なのか、ということを考えてみましょう。

理系的学問、たとえば物理学や数学の中では、ニュートン力学といった考え方の体系や、アインシュタイン方程式、ピタゴラスの定理といった有名な方の人名がついた数式において、その人名はあくまでも数式や考え方の識別子として機能しているように思います。アインシュタイン方程式が多くの人から正しいものとして受けいれられているのは、その方程式をアインシュタインという権威性がある人が考案したからではなく、その式の正しさを多くの観測事実や他の理論から考察したときに、その式を反証する事実が発見されなかったからです。

なお、物理学等の自然科学においては、ある命題の真偽は、その命題の反例となる事実が、あらゆる角度からの検証を持ってしても発見されないことによって、真であると判断されます。理系的学問の中でも、より厳密性を重視する数学においては、ある命題の正しさというのは、公理と呼ばれる最も基本的で、正しいことを前提として良いと皆が認める命題を真であると仮定した上で、基本的な公理から論理的に導かれることを持ってして、正しいとみなされます。ここで公理とは、1+1=2であるとか、点と点は1つの直線で結べるとか、そういったレベルのことです。

こういった命題の真偽は、客観的に検証されうる形で、真であるか偽であるかを明確に示せます。というとちょっと語弊があり、むしろ真偽を明確にできないような宣言は、命題ではないと言われます。

一方で、文系的学問、たとえば経営学や経済学、文学、社会学、心理学、哲学などにおいては、ある人の考えというのがあったときに、その考えの客観的な真偽を明確に決めることができないように思います。
なんらかの学問領域の権威である方の考え方について、そもそもその考え方に曖昧性が残っているが故に、客観的真偽性を断定できないのです。
文系的学問の中でも、経営学であったり、経済学の中でも特に数理ファイナンス的な分野では、比較的その真偽を明確にできる命題を検証しているように思いますが、それらですら、複雑な現実を扱うことは不可能であるため、現実の複雑性を捨象した何らかのモデル的概念を導入した上で思索が進められます。

そういった学問的違いがあるが故に、厳密に検証できないテーマを扱う文系的学問をバックグラウンドとする人は、誰の考えなのかというのを重視する傾向があるのではないかと考えました。なぜなら、厳密に客観的検証ができない状況下においては、これまでの実績や権威性をもって、確率的に正しいことを言っている人のことを信じるのが合理的だからです。

そして理系と文系の境界とは、まさにこの記事で述べたような、対処する問題が客観的に真偽を検証できる度合いの高さによって、決まっているのではないかと考えています。

まとめ:現実の問題への対処

さて、私たちが普段接している現実で発生する問題は、極めて不確実性や曖昧性が高く、厳密に何らかの決定の正誤を検証することはほぼ不可能に近いです。
営利企業において、どういった事業にどれだけのリソースを張るべきか、どういった制度設計をすれば、その組織がうまく回るのか、というのは、経験則等によって一定の解はあっても、客観的正誤を明確にはできません。

私は、こういった現実に対処していく上で、文系的バックグラウンドを持つ人々が用いる方法、つまり権威性や一定の論理的確からしさ(正しさではないことに注意)をもとに、誰を信じるかというのを重視するというのは、極めて合理的な方法だと思っています。

こういった考えは、私が働くようになってから学んだものであり、学生時代までの同質的な集団では出会わなかった人と仕事をする機会を通して、面白く実用的に役にたつ方法を学習できるのがとても楽しく感じます。